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豪商からの歴史を
紡いできた時間が
今も息づく、鴻池新田
「鴻池新田」は、江戸の三井と並ぶ大阪の豪商、鴻池家三代目の善右衛門宗利が約200ヘクタールの広大な新開池の跡地を開発したものです。宝永2年(1705年)に開発工事が開始され、大和川付け替え工事でできた新田の中でも最大の面積を誇っています。
拠点となった「鴻池新田会所」は村や農業の管理拠点として240年間使用されてきました。貴重な文化遺産のため、敷地は国の史跡、本屋・庭園・農具蔵など5棟の建物と棟札が重要文化財に指定されています。(現在休館中)
●かつて東に遠望できた生駒山を借景とした庭園は、弁天池を設け、植木の種類や刈り方を変えたり、庭石や石燈籠を配して、庭を巡って変化を楽しむように造られています。
●本屋の広壮な土間と高い梁、開放的で簡素な座敷、中庭に面して立ち並ぶ蔵、米つき場など、民家建築とは異なり、新田経営のなかで生み出された造形が特徴です。また農具類を中心とした民具、かつて新田の水路を往来した船や綿の畑があります。
※出典:東大阪市公式ホームページ「鴻池新田会所」(https://www.city.higashiosaka.lg.jp/0000003597.html)
[公開日:2023年4月3日][更新日:2023年9月19日]、東大阪市「国史跡 重要文化財 鴻池新田会所」[2017年11月30日6版]
時には、相撲や俄狂言、
浄瑠璃などを楽しむ文化も
昼間は農作業、夜や農閑期には綿稼ぎに励むという忙しい毎日を送っていた鴻池新田の村人ですが、時には相撲や俄狂言、浄瑠璃などの余興を楽しんでいました。
鴻池墓地には江戸時代から終戦直後にかけての浄瑠璃役者や相撲頭取の墓が残っています。また、 村人の中に浄瑠璃役者がいたこと、村の中に相撲部屋があったことを意味しています。朝日社境内の絵馬堂には明治・大正時代の浄瑠璃番付や相撲番付が掲げられていて、いずれも村人が勧進元になって興行が行われていたようです。
また、いつからあったのかはっきりとしませんが、終戦後までは伊勢大神楽・山本源太夫組 (現 国指定重要無形民俗文化財)は中河内地域も旦那場にしていましたので、毎年秋に会所におとずれ、村人の前で舞や曲を披露し御札を配っていました。
※出典:東大阪市「国史跡 重要文化財 鴻池新田会所」[2017年11月30日6版]